この南御堂の本堂南側の庭園「獅子吼園」に『旅に病でゆめは枯野をかけまはる ばせを』の大きな句碑があります。
また前の御堂筋の四車線の本堂と側道を隔てる緑地帯の銀杏の樹の下に
「此付近芭蕉翁終焉ノ地ト伝フ」(昭和9年3月建之 大阪府)と云う石碑があります。
元禄七年 門人達の対立を和解させるべく、伊賀上野から奈良を経て大坂に着いたには九月九日だった。
大坂に着くと間もなく体調をくずした。しかし、二十日頃からは回復し、二十六日には新清水に遊び
「此道や行く人なしに秋の暮れ(笈日記)」の句を詠んでいる。その翌々日には「秋深き隣は何をする人ぞ」
を詠んだ、ところが二十九日夜、下痢を催して臥床、その後日を追って容態が悪化し、
十月五日門人の家から南御堂前の花屋の貸し座敷に移された。十二日申の刻に五十一歳の生涯を閉じた。
亡き骸は、生前芭蕉が愛した風光明媚の地、湖南の膳所に移され義仲寺に葬られた。
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